昭和五十二年九月二十一日 朝の御理解 第四十四節
狐狸でさえ、神に祭られることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神に祭られ、神になることを楽しみに信心せよ。
このままの信心を続けておったら、必ず神に取り立てられ祭られるおかげを受けられるという確信を持てれる様な信心を頂きたいね。このままの信心を続けておったら、必ず死したる後、神に祭られる、神に取り立てられるおかげが受けられる、ということを楽しみに信心させて貰わなければならん。それが自分で本当に感じられるおかげでなからなければいけない。それにはね、どうしてもおかげを受けなければならんから信心をしておる。信心をするからおかげを頂く。もうここで決まる様ですね。
おかげを頂くから、またおかげを頂かなければならんから信心をする、ではなくてね、信心をするからおかげが頂ける。いわゆる信心を頂くということなんです。この辺のところがね、私は段々はっきりしてくるとです、とにかく信心も難しいというのは、おかげ信心だから難しいのです。信心を頂くということだったら難しいことがあればある程、信心の力が付く、信心の喜びが深い。ですから、いわゆる有難い信心とは、そういう信心。おかげが有難いのじゃない、信心が有難いのだと。そこには、だから緩みが来にくい。来んということはないでしょうけれども、信心が身に付いて行くということが楽しい。そういう信心させて貰えりゃ、おかげの方は黙って付いてくる。ああもう本当に、本当の信心も出来ませんのに、おかげを頂いて勿体ないという様なことになって来るわけですよね。
昨日、ビリグイから手紙が参りました。その手紙を読ませて頂いて、神様にお礼を申しさせて頂きよりましたら、『人間の力は、より後になる程より強い。』ということ。人間の力は、より後になる程より強い。信心はより前に行う程より尊しということを頂くんです。信心はより前に行う程より尊しということです。今日は皆さんに聞いて頂いておるのは、この神信心は、より前に行う程より尊しね。信心をさせて頂いておるね、信心を頂いておるということなんですね。
昨日の手紙もいろいろおかげを頂いておる様子が書いてございますが、中でも今度公子さんが安産のおかげを頂いたということが。二日の日に入院して安産のおかげを頂いたんですけど、三日の日には退院して帰って来とるです。もう今度のごたるお産はなかったと。こりゃもう親先生と親奥様の祈りが、また合楽の信者の皆さんのよっ程の祈りがあったからこそだと、公子自身がそれを繰り返し言うとりますと書いてあります。勿論あちらの現地のブラジルのお医者さんでしたから、少し違うのかも知れませんけれども、教祖のおっしゃることと同じですね。もうお乳も、あり余る程頂いております。もう明くる日から起きております。もう、お産をしたからというて、それで一ケ月寝らにゃならんとか、二十日寝らにゃならんということではない。明くる日、勿論悪いなら退院出来はしませんでしょうけれども、もう本当に安産であったからこそ、明くる日帰らさせて頂いた。そしてまたのおかげは、丁度あちらに参りました時に、ビリグイというところに日本人のお医者さんがなかった。だから、一月位前からサンパウロの方へおいでなさいと、あちらであちらから、あちらで日本のお医者さんに掛かったらよいからと、言われておったから、いよいよの時には、そうでもしなければならない様に思うておった様ですけれども、あれは一ケ月位あちらへ行ってからでしたでしょうか。すぐ近所に日本人の産婦人科のお医者さんが出来られた。本当に神様のお働きは恐れ入ると言うて、夫婦の者が安心して、近所にね、お医者さんが出来たから、それでそこに勿論掛かっておりましたところが、いよいよ生まれるという時になったら、二、三日前から、そこのお医者さんが旅行しとられる。それでご信者さんが丁度お参りし合わせて、ブラジル人のご信者がお参りし合わせて、そんなら私の親戚にこうした医者が居りますからと言うて、丁度二人参ってきたご信者さん方が、もうそれこそ手とり足とりせんばかりに、それこそ行き届いた、親身も及ばぬ行き届いた御用をさせて頂いて、ブラジル人の方の病院に入院したわけですよね。そしたら、おかげを頂いてから、勿論明くる日帰って参りますから、分娩料といいますか、払いは一万円で済んだそうです。日本人のお医者さんにかかっとったら、二十万円かかるからと言われとったそうです。もう本当に神様の御働き、御都合には恐れ入ってしまいます、とこう言うのです。
私共がね、ここで一生懸命信心させて頂いておると、例えば難儀な問題とか、どうなんだろうかといった様な問題でも、神様がこう安心せよと言わんばかりのお働きが必ずありますね。こちらに本当の真の力がある様でないわけです。ですけれども、ここに例えば末永先生どんが場合は、あちらへ行って一ケ月目に、あちらに日本人のお医者さんが出来られた、というだけで安心しとりますよね、夫婦の者が。そしていよいよ出産ということになったら、向こうは旅行で居られない。そこへお参りをして来た方が、私共の親戚に産婦人科がありますから、そこへ参りましょう。そこへやらせて頂いたら、この前の手紙でしたですけれども、総代さんの息子さんのお嫁さんが入院しておられて、付き添いの方も日本人じゃった、という様なお繰合わせの中に、せめて、二日か三日か一週間位居るかと思うたら、もう明くる日帰ってきとる。自分でお礼の手紙を書くと言うばってん、それは俺が代わりに代筆するからと言うて、まあ私が公子の喜びをそのまま、手紙に書かせて頂くと書いております。そして、本当のおかげは次の神様の計算というか、お計らいの中にあったということが分かりますね。
これなんかは、もうその前に信心がしっかり出来ているわけです。お産もう前々から、ちゃんとその【 】真剣な信心が出来ておる。おかげを頂いて、近所に日本人のお医者さんが出来られた。これも広大なおかげと思うて来よった。けれども、それよりもっともっと有難いおかげ。信心はより前に行う程、より尊しというおかげ。信心が出来たから、おかげの方がずーっと付いて来とる。その付いて来とるおかげが、何ともかんとも言えん様なおかげでしょうが。もう次々と御信者さんがお参りになって、もう沢山お祝いを頂いておるということも書いてございました。もうブラジル人の方達の親切には、もう恐れ入っとりますと。どうでしょうか。サア、嫁御がいよいよ出産、もう安産じゃろうと思いよったところが、ちっと難産になった。サア、ならいっちょ金光様になっとんお願いに行けと。そしたら金光様にお願に来る。これは、そのいよいよ、なら家内が出産、それで大変苦しむ。その時に一生懸命の信心が出来るということでしょうね。ということは、一生懸命に、人間はそういう時に、土壇場になった時に信心のない者でも、一生懸命何物にか縋らにゃおれないという力が出来てくるということでございますでしょうね。人間の力は、後になる程より強いという。けども、この強いという祈りとか信心ということは、大した尊いことじゃないですね。いうなら悲しい時の神頼みであったりね。苦しい時には、溺れる時には藁をもつかむといった様な心境、嫁さんが、それこそ出産のためウンウン言うてから苦しみよる。それから親父は漬物部屋に入ってからウンウン言いよんなるげなけん、何しよんなさると言うたら、お前だけに苦しませちゃ済まんちゅうちから、漬物石を一生懸命抱えよった、そげな力が出るわけ。嫁御だけに苦しませちゃ済まん、私もちっと苦しまにゃちゅうてから、大きな石を抱えちからウンウン言うちから、まあ抱えよったと。笑い話の様なことですけれども、私はこれはそういうことだと思うですね。普通ならそげなことしもせんし、そげな力はとても出そうともせんのだけれどもね。嫁御だけに苦しませちゃでけんといった様なことになる。人間の力はより後になる程より強い、信心はより前に行う程より尊い。そこで今日の「死したる後、神に祭られることを楽しみに信心せよ」というのは、苦しい時に神様にお縋りして、それは奇跡的なおかげは頂いたにいたしましても。
昨日は宮崎から電話が掛かって参りましてね。この前一遍お参りしたことがございまする氏子でございますが、息子の上に、何か高い所からカセットが頭にお落ちかかったんだそうです。それでそのまま倒れて、それから意識が出たけれども、それから吐き気がきてから苦しんでおるとこう言う。それですぐここに電話が掛かってきた。勤め先の主人に電話掛けたら、お父さんもビックリして、ここへ電話掛けてきた。お母さんも丁度前後して電話掛けてきた。今、お母さんから電話掛かってきたから、お届けしとるから大丈夫ですよと私が言うたら、医者に行かんでも良いでしょうか。とにかく電話を掛けて見なさい。お家の方がおかげ頂いとったらそのままで良いでしょうが、と言うてお父さんが帰った時には、もうピンピンして遊びよった。そげん時の縋る力というものは、やっぱり強いですね。両親の者は子供のね。
だから、そういう信心はどれだけおかげを受けても、死したる後、このまま行けば自分も神様になれるなという様な確信とか心は生まれて来ないと思うですね。おかげは身に付けるけど、信心は見に付きよらん。けれども、信心が先になり、後からおかげが付いてくるという程尊いんだとね。本当に信心が先に立ったら、もうお願いすることがない程に、おかげを頂いて行けれる様な信心を頂きたい。困ったことになった。それから信心を始めるとか、日頃は御無礼しとるけれども、何か難儀な問題が起こってくると、まあ一生懸命お参りをする。そういう信心が、それも初めの間は仕方のないことです。おかげをまた受けなければなりませんけれども、そういう信心が繰り返し繰り返しであっては力にもならなければ得にもならんということです。それでは死したる後、神様に祭られる。このまま行けば自分も死したる後、神に祭られるぞ、取り立てられるぞと思われる様な心が生まれません。信心が頂ける。信心の心というものは、いわゆる有難い、勿体ない、いわばどんな場合であっても、心の中にゆとりがあって心が豊かになって、限りない喜びが頂かれる。これが続けられていく限り、死したる後、神に祭られるということが、楽しうなって来る。死したる後、神に祭られることを有難いと心得てね。それを楽しみに信心せよとおっしゃられる。神に祭られ神になることを楽しみに信心させて貰う。ここんところはね、いうならば自分の昨日、それと一緒に『一念一行』ということを頂いた。一念一行、一心発起して、これが信心だと思うことを、その一事だけでも徹底して自分のものにしていこうという様な行き方ね。
私共の例えば御先祖、果たして神様に祭られる程しのおかげを頂いておるだろうかね。昨日はこんなことも頂いた。『祖先を大切にすることは、我が土地を養う様なもの。』。祖先を尊ぶ、祖先を大事にするということは、我が土地、自分の土地ですね。自分が持っておる畑なら畑を養う様なものだと。自分の持っておる畑ならば、それがやせては物が出来ませんから、それを養うでしょう。いうならば肥料をいつも施して、いつ何を蒔いても出来る様に、自分の田圃ならば、そうせにゃおられんのです。私は、これを先祖というのは家の根である。「根が栄えずして、枝葉の栄える例しはなし。」といった様な御理解はいつも頂いておりましたけれども、こんな御理解を頂いて見てから、それよりかもう一つ、実感的にですね。いよいよ先祖というものを大事にせなければいけないなという感じが致しました。自分の田圃だもの。だから自分が肥料を施さにゃ、誰が施してくれるか。お宅の難儀の基も、いうならば祖先がやせ枯れてござる。
先日の御理解で行くと、今村和子先生が頂いておる様に、『雪霊天命』という様なことじゃなかろうか。霊が例えば苦しんでいる。まあ分かりやすく言うと、地獄なら地獄で苦しんでおる。それこそ雪霜の中に凍えておる様な辛い思いをしよる。それも天命なのだということです。だから、そういう例えば霊が、私共の先祖の中に居るならば、そういう霊を救い助ける一つの儀式の様なものが霊祭りだとこう言われている。だからいつも、そういう大きな春、秋に霊祭りがあるというのは、そういう儀式なんだ。いうならば、『霊徳天命の儀』と頂いとります。霊徳ね。霊様が徳を受けれる。それもやはり天命なのだ。だから天命だからあきらめろというのじゃなくて、信心によってです、いうならば雪霊天命という様な霊様が、霊徳天命の儀に会って、そういう儀式に会って、遺族の者、子孫の者の真心に会うことが出来ることによって、天地の神のお許しを頂いて、霊の位も一歩でも一段でも進めさせて頂けれる様な儀式なんです。だから本当に、お供え一つでも、いかに真が、真心がこもっておる、溢れる様な、いうなら親先祖に対する思いというものが、大事というものがいよいよ分かりますですね。
ですから、それ前にです。私共がね、先祖を大切にするということは、わが土地を養う様なものという日頃の養いが、サア何か、植えならんから、今どんなに尊い、いうなら大事な良い肥料を施しても、一遍にそう利くちゅうわけはない。前々からちゃんと何というですか、待ち肥というですかね。もう前々から土地を肥しておかなきゃならない。そういう働きが、信心させて頂く者には大切であるし、それが出来るのも信心だし、また信心させて頂いとれば、親孝行せずにはおられない心が生まれてくる様に、親先祖を大事にせなければおられないという心が養うことになる。
例えば、そういう苦しみの御霊、いうならば迷いの霊といった様な、迷うておったり、苦しんでおったり、その霊をです。神に祭らせて頂ける程しの私は信心が、信心を頂いておる私共が、その責任を感じさせて貰うて、親先祖のために真心一杯の信心と、いうならば仏教的にいう、供養、真心の、いわば奉仕がです。日々欠かさず、なされて行かなければならない。まして、春、秋の霊祭という時には、そういう一つの一段上に上がらせて頂く、進級させて貰う、霊の位が、そういう一つの儀式が行われるということなんです。それが霊徳天命の儀と、雪霊天命とね。これは本当に今村先生が素晴らしいことを頂いてくれたと思ってね。このことを徹底して、今度の霊様のお祭りの時に、皆さんに聞いて頂こうと思っています。霊の世界も人間の世界も同じ。苦しみの様相というものは同じ。そこで霊様が喜びなさる様にということを、サアその時にバタバタしてからというわけにはいかん。いわゆる今日申します様に、人間の力は、より後になる程より強いというのは、サア子供、家内が出産が始まった。サア苦しみよるけんで、漬物部屋に行ってから重し石をウンウン言って抱えるといった様な信心ではいけないということね。そりゃ家内としては自分の苦しみよる。なお、お前だけに苦しませちゃ済まんと言うてから、自分が修行でもするならば、やっぱりこりゃよもや漬物石を抱える奴は居るめえけん、神様に向かって一生懸命お縋りをするという修行をしてくれるなら、そりゃ嫁ごも嬉しいには違いないですけどね。それでは大体いうたら、おかげはそれによって頂こうけれどもね、より尊いということにならない。
そこで信心はより前に行う程、より尊しという信心が日頃出来とらなければ、これは、私共のおかげの上においても、また霊様、親先祖に対するそれでもやっぱり同じ事が言えるのですね。金光様の信心をしとれば、誰でも霊の神に祭られるということではないことが分かりますですね。例えば五十年、六十年信心を続けておってもです。そりゃ熱心には参ったけども、それはいうならば、人間の力はより後になる程、より強い信心をしたというだけで、自分の身に付く力とか徳とかということにはなっていないということね。信心をするから、おかげが伴うてくる。そこに有難い、勿体ないはいよいよつのる、という信心をさせて貰わなければいけない。おかげを頂かなければならんから、信心をしておる。これでは結局、霊の清まり、霊の光といった様なことにはあわれない。
死したる後、神に祭られるということを楽しみに信心するということ。自分で自分の心を拝まして貰うてです。このまま行きゃ自分も神に祭られるなという様な確信の頂けれる様な信心を頂きたい。私共は、こうしておかげを頂いて、信心の縁を頂いたのですから、自分の霊が光り輝きする様な、おかげを頂くことのための信心を一つ本気でさせて貰わなけりゃならん。これは、知らぬこととはいいながら、現世において神になることの精進も何にもしなかった。いうなら我情我欲いっぱいで、飲んで食うてチョイでしまっておる先祖も沢山居ろうかと思う。そういう霊達には真の信心を頂いていっておる私達がです、真の信心の道をつけてやらなければいけない。真の助かりの、いうならば誘導をさせて頂く、いうならば責任を感じさせて貰える信心を頂いて、先祖を大切にするということは、自分の田圃を養う様なものだとおっしゃるのですから、自分のためにも、やはり本気で田圃に肥料を施し、豊かな土地にしておかなければいけないということでございます。
一つ楽しみの信心、だから合楽理念を基にして、それこそ、うれしう、楽しう、天地のリズムを聞きながら、信心を愉快にしていけれるという程しの信心は、もうこれは絶対、このリズムに乗って行きゃ、極楽行き間違いない。このリズムに乗って行きゃ、神に祭られること間違いない。そのリズムを消さない様に切らない様に信心を進めて行かなければいけないですね。どうぞ。